ポリテックについて考える【勝手に用語解説】たぶん間違ってる… 政治と技術

ポリテックとは、政治✕技術 Politics(ポリティクス)✕ Technology(テクノロジー)を意味する小泉進次郎が提唱する新しい概念である。

政治の世界で、テクノロジーの観点は、ますます重要度をましている。

 テクノロジーの社会的インパクト、政治的インパクト、国際関係で無視できないものになってきているそうだ。

政治家が、テクノロジーインパクトを理解していなければならなければなってきている。

ポリテックという言葉を作れば「テクノロジーによって何ができるか」「テクノロジーでどう変わるのか」という観点を政治と行政に入れ込んでいくことができるようになってくる。そういった視点を入れるためにポリテックという単語をフィンテック(金融✕テクノロジー)のように作ることが重要だ。

「テクノロジーによって何ができるか」が法律や規制を変える際に、テクノロジーによるセカンドオピニオン的なことができて、政治の意思決定過程に多様性をもたせることができる。

 

具体例)コストのかかる地方ではネット投票にするなど…

 

(さらには、議論の場でのタブレット端末や、スマホを出すのがはばかられる状況も変えていかなければならない。)

 

地方で、スマートフォン(技術)で制作決定や納税(政治的意思決定)ができることで地方の政治参加の格差が減る。

技術ですでにできるのに、政治的に制度が整っていないということがある。

それは大変にもったいないことが数多くある。

政治で何かをしようというときに、じゃあテクノロジーで何ができるのかということが議論しやすくしなければならない。その時の技術は、ハードだけではなく、もちろんソフトウェアの面でもしていかなければならない。

技術的にできるのにに遅れて導入しているのではなく、技術と政治が一緒に走って法制度を作っていかなければならない世界になってきている。

政策の決定の際にテクノロジーによる議論が入ることがものすごく大切になっていく。

ポリテックという単語を広めていこう。

テクノロジーの進化を政治が足を引っ張るのではなく、テクノロジーが政治を引っ張っていくような社会になればいいのではないだろうか。

なにか問題があるときに、じゃあテクノロジーで何ができるんだろうと考えていくマインドセットにならなければいけない。(それは教育でやっていかなければならない。)

 

↓落合陽一さん、夏野さん、小泉進次郎さんのニコニコでの鼎談

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夜のお散歩

歩こう、歩こう。私は元気〜、歩くの大好きどんどん行こう〜♪

ってな感じで、ここ一週間ぐらい散歩を、心と身体の健康のためにするようになりました。

 しかも夜に。だって昼間や夕方は暑いから(笑)

 手ぶらで何も持たずに夏の夜を歩くのは、案外気持ちよくて、これからも習慣になりそうです。

 今日の散歩コースは、自分が通っていた小学校の近くのけやき並木の道を通り抜けるコース。

 蝉たちがスコールのように鳴きわめいていました(笑)

でも不思議とあぁ夏だな、蝉も必死に生きてるなぁなどと思い、珍しく不快に思いませんでした。

 最近、読む機会があった村田沙耶香さんの『殺人出産』のせいかもw

 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

その、けやき並木 の通りには公園があって、昨日がお祭りだったんですが、盆踊りの鉄骨の櫓が今日もまだ残ってました。後の祭りならぬ、祭の跡。祭のアート。誰もいない祭のあとの悲しさが、それはそれでいい雰囲気をだしていました。桜が散る瞬間もいいみたいな?笑 

私も地域の祭りにもっと参加したかったなぁと昔を思い出したりしました。

なんのオチも脈略もないですが今日はこの程度のアウトプットにしておきます。

 

 

犯罪者が出るとなぜ撮った映画やドラマを世の中に出してはいけないのだろうか

犯罪者が出るとなぜ撮った映画やドラマを世の中に出してはいけないのだろうか。

当然のごとくイメージが悪いからだろう。犯罪者を出した映画にスポンサーがお金を出すとまずいからだろう。

でもどうなんだろう。演劇、ドラマを見るときに役と役者は切り離して見ているのではないだろうか。たとえば、逆に演劇の中で殺人を犯す役の役者が実際に殺人鬼であると考える人がいくらいるのだろうか。その役者の実生活とその役を一緒に見るだろうか。

もちろん、役者に役のイメージが残ってしまうことがある。逆に役者の実生活が役に重ねて見てしまうこともあるのだろうか。でも、犯罪を犯す前に取られたそれは、犯罪と関係なくきちんと仕事をしているのだ。そんなもので損害をいくらも出す方がおかしい気がする。もちろん犯罪を犯すのが悪いのだが…

 

ラピスラズリの勾玉をアクセサリーっぽくしてみました

以前ミネラルショーで買ってきたラピスラズリの勾玉!!!

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ミネラルショーに行った記事はこちら↓

bluewakame.hatenablog.com

 

こちらをストラップみたいにしたいなぁと…

そして買い込んだのがこちら

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革紐、ターコイズビーズ、ウッドビーズ、あとストラップについてるあれ。

そして悪戦苦闘…

 

完成品がこちら!!!

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うむ、素人の為せる技。

でも自分では大変満足しました。自分の大事なものにつけて楽しみたいと思います!!!!

聞こえすぎる日々 (創作)

私は、親の勢いのせいで、今どき珍しく遺伝子操作を受けずにこの世に生を受けた。当然ながら、遺伝子操作を受けていないので、能力にばらつきがあり、周りの人間からかなり劣る。どうして後も周りの人間が普通にこなせることがこなせない。学校生活においては、常にいじめの対象だった。  生をこのように、この世に受けたこと、それ自体が罰のようなものだった。  

 しかし、不思議と歳を経るごとに、周りの人間たちにはない才能が開花しだした。それが聴覚だ。

 私は普通の人が聞こえない音や会話が聞こえてきてしまう。クラスの端だから絶対に聞こえないだろうというような陰口が鮮明にきこえてくる。他の人間にはない特徴。しかし、こんな具合なのだから誇れるものでもない。今日も今日とて聞こえすぎる毎日。大きな音が私の心を締め付け、穴に落ちるような浮遊感を与える。聞こえすぎるのだから聞いてみたい。神よ。なぜ私は生まれてきたのだ。私に何をさせたいのだ。生まれる苦しみを人の何倍も受けそれで何を私に何をさせたかったのだ。

理解、分解、再構築 最強の真理の扉理論

鋼の練金術士で出てくる理論 

「理解 分解 再構築 」これこそ心理の扉の答えなのではないだろうかと私は思ってしまう。

 

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理解  帰納 インプット  具体から抽象

分解  演繹 アウトプット 抽象から具体

再構築 帰納 インプット  具体から抽象

 

女性のくびれや、木の構造にも見えるこの図あらゆることに通じるのではないでしょうか。先行研究という具体例(水)たちを、分解して、抽象化して水素と酸素に分ける。

そしてそこからエネルギーに変換し、葉という具体例をまた作り出す。

私の勉強の考え方の一部でした。文章(先行研究)(具体例)を読めるのも大事ですけど、自分でいったん咀嚼して分解できる『要約』の能力(抽象化)がとても重要で、その後に再構築することで、自分の意見が作れるのではないだろうか。

これを高速で行うことこそ金を生み出す錬金術ではないだろうか。

だからグラトニーの腹の真理の扉の入り口(理解)から入り、異空間(分解)を経て、錬金術によりもとの世界(再構築)に出てこれたのだろうと思うし、分解(真理)を捨てることで、理解を捨ててもとの体に戻れたのではないだろうか。これが私が考える真理だ。

 

鋼の錬金術師全27巻 完結セット (ガンガンコミックス)

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私が勝手に考える用語解説 【計算機的自然[デジタルネイチャー]】

 言葉で切り取ってしまった瞬間に、あらゆる壁(=境界線)がたちあらわれる。問題はいつも境界線上で起きる。(「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」)

 

 しかし、あらゆるものの境界線など、実は無く、境界線があっても人によって様々(多様性、ダイバーシティ)であり、世界はグラデーションのあるものなので、ここから緑でここから黄緑色という境界線を簡単に引けるものではない。境界線を引いたとしてもそれは、人によっては、えっ、これ黄緑ってカテゴリーに入ってるけど緑でしょ?みたいなことになる。

 

 人間は、何かを理解したり、理解したつもりになるために、カテゴリーにいれたり、二項対立を作ったりしたがるのだが、実はそういったことをするからマイノリティが生まれてきてしまうのだ。

 

 男女という二項対立を導入してしまうと、セクシャルマイノリティが現れ、浪人と現役という区分をすると、浪人がマイノリティとして扱われる。

 

 だが、より大きなカテゴリー、黄緑と黄色ならどちらも色というカテゴリーに入るし、男女なら人間というカテゴリーに入る。浪人と現役なら同じ大学生というカテゴリーに入る。つまり、境界線の引き方で認識が変わってしまうのだ。これは人種や障害者の扱いにも当てはまる。これらがみんなに理解されれば、お互いの個性、多様性を認め合うことができるのだ。

 そうした文脈、コンテクストの中で、生物(自然)と機械の境界線を溶かそうというのが、計算機的自然(デジタルネイチャー)という、落合陽一が提唱する新しい時代を作る概念だ

 だから彼は機械で蝶の動きを再現してみせたり、画面を木の材質に変えてみたり、鯖の皮の表面をプリントで再現してみたりするメディアアートという作品達を作りだすのである。その媒体、アートを見た鑑賞者は、機械と生物(自然)との境界線の融解に価値観を揺さぶられるのだ。

 渋谷で6月中まで、彼の作品の個展が、無料で公開されている。そこにあなたが実際に足を運び、生で、liveで、それを見るかは、あなたの多動力(堀江貴文が提唱)にかかっている。
ちなみに、私は見に行けてない。行きたい。きっとエモい(いとおかし=何か感情が揺り動かされる。)

 

 テクネフォビア(技術嫌悪)は、アーリーアダプター(早期受容者=新しい技術にすぐに飛びつき受けいれる人々=能動的)と、レイトマジョリティ(遅い受容者、大衆、大多数=受動的)かによって大きく違う。

 

 しかし、iPhoneを例にスティーブ・ジョブスの凄さを語れば、嘘が上手いということになる。彼は、小さなパソコンを、さも携帯電話であるかのように、iPhoneを売りだした。その結果、本来レイトマジョリティであるはずの大衆が小さなパソコンをもち、常時ネットに繋がる端末をたくさんの人が持つことが、普通となる世界を作りあげたのだ。これは、大きな価値観の転換である。 そして、その大きな価値観の転換で起きたのは、みんなそれぞれが自分の端末で、それぞれに違うことをしているというダイバーシティの到来だ。

 

 同じiPhoneでも、その使い方は様々だ。ゲーム機として使おうが、カメラとして使おうが、メモ帳として使おうが、youtube視聴機として使おうが、それは個人の個性と感受性とそれに赴くままだ。しかし、そうなった世界でこそ、他者理解が重要となる。

 

 しかも、その先はさらに細分化していく、なぜなら、youtubeで何の動画を見るかも、個人の個性と感受性とそれに赴くままだ。

 

 つまり、育って来た環境も、考え方も、影響を受けたものも全て、かなり、多様化したなかで、他人を受けいれるには、自分と他者の境界線を強く引くことである。

 

 自分は何が好きで、何が嫌いで、その理由はこうで、こういう自分史があるのだと、他者とたくさんの言葉を尽くし、語り合い、自分は他人とは違うんだ、(もちろん、それは自分が上とか、下とか、勝ちとか負けとかの優劣ではない。)という認識が大事になるのだと私は思う。

 

 

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

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魔法の世紀

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