ベタベタで甘々の恋愛小説だけど好き(ネタバレあり)

 

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 
君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい

 

 人間誰しも自分の存在を肯定してくれる恋人の存在を望んでいる…のではないだろうか?私だけだろうか。

フィクションの世界でただ自分に都合のいいヒロインを作り出して仕舞えばそれはただの男の独りよがりの妄想だ。(作者が男か知らないけど)草食系の冴えない男子が、活動で活発的で元気な女の子と急に仲良くなり変化していく、ボーイズミーツガール。散々やりつくされたこのてのライトノベルにありそうな展開。もしかしたら飽き飽きしているだろう。

まぁ、私はそういうベッタベタなの好きなんですけどね(笑)

この作品はそれに一捻りいれている。ヒロインが病気で近々死ぬとわかった状態で始まる。上に書いたようなボーイズミーツガールでヒロインが死ぬというと似たような感じで、私は「四月は君の嘘」を思い出した。(ちなみに、この小説を読んだ後にアニメ「四月は君の嘘」のOPでgoose house「光るなら」を聞くと胸熱。)

そして、「四月は君の嘘」と同じなら私はこの小説をこんなに評価しなかっただろう。

この小説の一番いいところは、ヒロインが結局病気と関係ないことで死ぬことにある。

人間はいつ死ぬのかわからないのだ。それは平等で変わらない事実なのだ。誰にでも明日があるとは限らないのだ。明日言おうじゃダメなのだ。

それをガツンと突きつけてくる。それがこの小説のいいところだ。

幻想民族問題小説

 

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

紙の動物園 (ケン・リュウ短篇傑作集1)

 

私は映画ではSFと言うジャンルのものをみることはあったのに、小説でSFは今まで読んでこなかった。さらには、海外の作家の作品に目を通すことも滅多になかった。名作と呼ばれるもので「老人と海」と「車輪の下」とかそういのだけだった。だから同時代に生きる海外作家の本を読むなんてことはなかった。

 ただ、この一冊を読んだ時に今までの読書ライフをだいぶ損をして生きてきたのだなということを痛感した。

 もちろん私が読んだのは日本語に翻訳されたものである。言語を完全に翻訳しきることは不可能だと私は思っているから、これが全てケン・リュウが書いたものそのままであるとは思わない。しかし、この翻訳者が大変優れているのだろうか。きっとこれがケン・リュウが書いたものだというように感じられたし、しかも英語ではなく、初めから日本語で書いたのではないかという感覚に陥った。

 幻想的な物語の中に民族の問題が息づいている。これは作者がおそらく小さい頃かから抱えていたものだからであろう。決して押し付けがましく「私が書きたいのは民族問題だ!!!」という印象は全く受けない。生活の中に民族問題が溶け込んでいる印象なのだ。私は日本で生まれ、日本人として育ってきた。他の民族ということを特に意識して生きてきたことはない。(もちろん、日本だってアイヌ琉球の民族を侵略し、在日中国人や在日韓国人を抱えているのだが)だから世界で起こっている移民問題をどこか遠くに感じてしまう。(日本は全然移民を受け入れない国であるからでもあるのだが)少しでもこの小説から受けた移民の問題の生活に溶け込んだ感覚を大切に心の隅に置いておきたいと思った。

生と性

AV女優の紗倉まなさんという方がAVを題材にした小説を書いた本がいいというので読んでみようと思って本屋に買いに行った。

 

最低。

最低。

 

 小説を書くのが上手だなぁと思いつつ、このひとはなぜAVという仕事についたのだろうと思った。

実は、書店に行った時にたまたま目に入って一緒に買った本がある。

 

AV出演を強要された彼女たち (ちくま新書1225)

AV出演を強要された彼女たち (ちくま新書1225)

 

 もちろん、すべての人が騙されて強制的に出ているわけでもないとの前提に立っている。でも、強制的にやらされたと同じような人がいる。これは負の側面だ。さらに、自分から応募した人でも思っていた内容や事前に言われた内容ではないことを断ることができない状況に追いやって、本人の意思と違うことをやらせるのも強姦と変わりない。

 

私は薄情な人間なので、出演することになってしまったのは、最初のAさんの事例以外は本人も悪いところはあるのではないかと思った。(これだとCさんに接した警察官と同じになってしまうのだろうか。)ただ、そういった人が救われなくていいと思ってはいない。こういった業界が成り立ってしまっているのは男の欲望でしかない。男として生きる私が無関心でいていい問題ではない。

 

紗倉まなさんの小説はこの新書の内容と符号している気がした。紗倉まなさんは天職だとし自分から望んでこの業界に入ったと色々なメディアで言っているようだが、小説を読んで受けた印象は、嫌々やっているのではないかということだった。それとも、この小説から読み取ることは別なのだろうか。

 

性とは「りっしんべん」に「生きる」つまり「心」+「生きる」である。人間の生と性の問題はは切り離せない。性的な営みからしか人は生まれてこない。

その性を売り物にすることはずいぶんと昔からやられてきた。需要は人類の歴史的に普遍的にある。映画もインターネットも初期の普及にはアダルト向けの性的なコンテンツの力もあったりする。

そして、往々にして性を売るのは女性だ。

男女平等と性差は別にして考えるべきだと思う。もちろん、職業が性別(男と女という二つの言葉で性別を切り取りのも限界がきていると思うが)によって差別されてはいけない。

(申し訳ないが、今回は身体的特徴が男性で性自認が男性の人を男、身体的特徴が女性で性自認が女性の人を女として話をさせてもらいます。)

しかし、身体的な特徴は仕方がない。一般的に、多くの場合は、男性の方が筋肉量が多い。だから、男性が重い荷物は持つものだ。これは、男女不平等ではなく性差だ。男女平等を認めつつ、性差は認めることが大事だ。私は、身体的特徴が性を売るのは女性の側にしていると思う。

この性差を考えた時に、この性差の性で起こることに無関心ではいられない。

 

女性の社会進出が遅れ、企業が女性の待遇を悪くするのもこの性差によるものだと思う。なぜなら、女性は出産と妊娠という仕事を休まなければいけない時期がくる可能性があるからだ。そうなると企業は男性を優先してとってしまう。単純に仕事に穴をあける人とそうでない人だったらどちらを採るかという話だ。

そして、それは女性の体しか子供を産まないという性差によるものである。

だから、私は子供の生まれた家庭の男性の育児休暇を義務化したらいいのではないかと思う。そうすれば、仕事に穴を開ける可能性はイーブン(対等)だ。

 

もういちどいうが人間の生と性の問題は切り離せない。

このことは私個人の人生の課題であり、日本社会の課題であると思う。

ネガティブな感情に支配されそうになったら理性と論理でねじふせろ!

私はたくさんの人がいる中に一人でいる事が苦手です。

たくさんの人々が会話している中にいる無言の自分。

今時のファッションに身を包み、社会に適応している「普通」の人たちの中に混ざり込んだ異物。

都会の街中にいくと押し寄せる人の波と声の波。波なのに引いてくれない。表現として好きではないが津波のよう。

こんなに人がいるなら自分一人いなくなったって何も問題ないな。自分一人いなくなったって何事もなかったように世界は回る。私の死を悲しんでくれるのはせいぜい親と数人の顔。私の葬式に来てくれる人なんているのだろうか。

すれ違うときに私に向けられる視線。きっと何も考えてなく反射的に前から歩いてくる人を一瞥しただけなのだろう。でも、私には「何あいつの髪型」、「気持ち悪」、「服ださ」と言っているように見える。

そうなると私の脳みそがキュと締め付けられるような感覚になり、喉が乾き、足が重くなる。

 

こうなった時は理性を持って論理、理論でねじふせる。

 

私が死んでも世界は回る。当然だ。でもじゃあいなくなる事で世界が回らなくなるような人間なんてそもそもそんなにいるのだろうか。アメリカ大統領が射殺されたって、次の大統領はすぐに決まるのだ。一人一人の人格の代わりはいないかもしれないが、役割の代わりのいない人間って一人でもいるだろうか。

死んだ後の葬式のことを考えたってしょうがない。死んだら自分の葬式をみることなんてない。誰が来ようが、誰も来なかろうが知ったことではない。

 

人が何を考えているかなんてわからない。口で「ありがとう」といいながら、「内心でふざけんなこの野郎」と思うことだって人間はできる。だから、人が心の中で何を考えているかなんて絶対本人以外の誰にもわからない。人の内心を推測したり、考えたりする方が無駄なのだ。実際には相手は何も思ってないかもしれないし、「何あいつの髪型」とおもっているかもしれない。しかし、どちらも「かもしれない」でしかなく可能性はイーブンである。

 

こうやって理詰めで自分の感情に対して反論するのだ。

 

そして、ブルーハーツを聞くのだ。

世界中に定められたどんな記念日なんかより

あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう

世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより

あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう

『TRAIN-TRAIN』

作詞・作曲:真島昌利 編曲:THE BLUE HEARTS

 

役立たずと罵られ 最低と人に言われて

要領良く演技出来ず 愛想笑いもつくれない

 

死んじまえと罵られて このバカと人に言われて

うまい具合に世の中と やって行くことも出来ない

 

すべての僕のようなロクデナシのために

この星はグルグルと回る

劣等生でじゅうぶんだ はみだし者でかまわない

誰かのサイズに合わせて 自分を変えることはない

自分を殺す事はない ありのままでいいじゃないか

『ロクデナシ』

作詞・作曲:真島昌利 編曲:THE BLUE HEARTS

 

うまくいかない時

死にたい時もある

世界のまん中で生きてゆくためには

生きるという事に 命をかけてみたい

歴史が始まる前

人はケダモノだった

『世界のまん中』

作詞・作曲:甲本ヒロト 編曲:THE BLUE HEARTS 

挙げたらキリがないし、もっといい曲がたくさんあるのでここまでにしよう。

 

私の人生の最終目標は、幸せになることだ。「普通」に合わせることが、社会に完璧に適応することが私の幸せとは限らない。お金がたくさんあることが幸せとは限らない。毎日ごはんを食べて、寝れて、クソ垂れてできる家とたくさんの本とがあって、人とのつながりが適度にあって。それが私の幸せだと思う。決して億万長者になる必要も、世界で代わりがいないと言われるような存在になることではない。

そうやって考えれば、たくさんの人ごみも大丈夫だ。

感情の波に押し流されそうになったらいつも、いつでもこの理論を思い出そう。

 

ネガティブをポジティブに捉える。

ネガティブなことをポジティブに捉えるとはいったい何を言っているのかと思われるかもしれない。もっと正確に言うのであれば、自分がネガティブであることをポジティブに捉える。または、ネガティブなことをポジティブに言い換えてみると言えるかもしれない。

 

例えば、何事にも不安を感じ、物事の悪い面ばかりを見てしまうとする。しかし、それは言ってしまえば、誰よりもリスク管理がしっかりしており、物事の欠点を見つけることに長けていると言えるかもしれない。

 

ネガティブとポジティブは陰と陽である。光(陽)があるところに影(陰)がある。影があることから光のある方向がわかり、影の形から実物を見ずに物の形がわかる。

写真は、ネガを使ってたくさんのポジを現像する。(現在のデジタルカメラは違うが)

ネガがあれば、同じポジをたくさん作れる。

世の中の真理に近いものに諸行無常があると思う。これは少しネガティブな香りがする。しかし、この諸行無常(ネガ)に端を発すして、「やまない雨はない」、「人の噂も七十五日」などの(ポジ)を引き出せると思う。

 

文学も同じような事が言えると私は思っている。明るいポジティブな話ばかりの物語が面白いかといえば違うと思う。ネガティブな話の方が面白い。もしくは、山あり谷ありな物語が面白いのだ。ネガティブなところがあるからポジティブが際立つのだ。ネガティブな感情、感覚こそ人の根底を流れていて、時代を超えて人の心に届くと思う。

 

どうしてもネガティブな考えに陥った時、理性をもって論理的にそれを否定することは有効だ。そうすべきだ。物事に前向きに取り組むことは大事だ。

しかし、ネガティブな考えが悪い事だとは完全には言い切れない。いつもいつもネガティブに考えてしまって自分が嫌になる、という人はネガティブなことをポジティブに捉えてみたらどうだろうか。

 

優柔不断は慎重。融通が効かないは真面目。言い換えは簡単だ。

自分の悪いところを認めないで開き直っていては人間として成長しないではないか。

そんな風に思ったあなた。すぐに否定的な事が思いつき、別の面に気づくあなた。きっとあなたはネガティブな人だと私は思います。

ポジティブな人は最初から「オレ真面目だから」、「私は慎重に行動する事ができます!」と言ってしまうのだきっと。そして何より、ポジティブな人はこのブログを、こんな記事を読みにはこないだろう。

 もっと自分に自信を持ってと言われても、いやでも…とポジティブに絶対になれないあなたは少し開き直り気味の方が調子がよかったりするのだ。自分を無理やりポジティブにする必要はないが、必要以上に下げすぎる必要はないのだ。自分を下げすぎてしまうあなたはちょっと持ち上げるぐらいがちょうどいいのだ。

 

巷には、ポジティブが優れているという理論ばかりが溢れている。そんなことはない。ポジティブとネガティブは等価値だ。幸も不幸もない。そしてなんなら中庸が一番だと思う。

 

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ネガティブな性格は生まれつき - 鬱々とした日々

自分の中に独自の辞書をつくる

かの有名なナポレオンは言いました。

余の辞書に不可能の文字はない

実際には、少し違うのではという議論(→ナポレオンの 吾輩の辞書に不可能はない ってアホな訳をしたのは... - Yahoo!知恵袋)があるようですが、私はこの言葉好きです。

私はネガティブなので「いやいや、不可能なことなんてありありでしょ」と思います。私が好きなのはその内容ではなく。「余の辞書」という部分です。

みなさんは自分の中に辞書をもっていますか?私は自分の中に辞書を持ちたいと常々思っています。

私の大大大好きな作家の米澤穂信さんの古典部シリーズ第3作『クドリャフカの順番』の中で、福部里志はこのようなことを言います。以下は伊原と里志の会話の場面です。

※「…」は中略、福、伊は私が勝手につけました。

 

福「国語の苦手なひと、かな」

伊「ふうん、赤点でも取ったの?」

「いいや、そういうんじゃなくてね。言葉の使い方がずっと間違ってるんだ」

福「自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃあいけない

福「なんでも『広辞苑によれば』って書き出しは紋切り型の一つなんだっててね。じゃあ僕は、広辞苑にどう書いてあるかは知らないけど、と言おうかな。広辞苑にどうかいてあるかは知らないけどね、摩耶花。期待っていうのは、諦めから出る言葉なんだよ。

福「時間的にとか資力的にとか、能力的にとか、及ばない諦めが期待になるんだよ。ネルソンが英国は諸君がその義務を果たすことを期待するっていう旗を掲げたとき、ネルソンは自分一人でフランスに勝てるとは思っていなかった。期待ってのは、そうせざるを得ないどうしようもなさを含んでいなきゃどうにも空々しいよ。…」 

P.346,347

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)

 赤い部分だけ引用すれば済む話なのですが、あまりに素敵なシーンなので長々と引用してしまいました。この作品は、4人の視点で描かれている作品であり、4人ともが主人公と言ってしまっていいぐらいです。

そして、福部里志を主人公として見た時に、彼の文化祭での物語は、この「期待」という漢字二文字とその裏にある「憧れと諦め」がテーマといって良いのでこの場面だけを読んで、この「期待」の言葉の重さは全然伝わらないので、ぜひよんで欲しいと思います。

この部分を引用して私が言いたかったのは、福部里志もとい米澤穂信さんは、自分の中に独自の辞書をもっているということです。

そのことは私なんかの何万倍もうまく、『折れた竜骨』(米澤穂信さん)の解説に森谷明子さんが書いてくれている。というか私も、この解説を読んで気づいた節もある。(森谷明子さんもクドリャフカとその他の作品の一節を引用している。)

※「…」は中略

…プロットの緻密さやキャラクターの造形の巧みさはもちろんなのだが、それ以上に感銘を受けたものがある。

…彼らは(つまり作者は)とにかく言葉遣いの細部にまで気を配っているのだ。

…米澤氏の作品に登場する人物の多くは、このように言葉をとことん吟味する。慎重に、臆病とさえ言えるほどに、正確に伝わっているかどうかに心を砕く。

…作者の言葉の使い方の細やかさと厳しさに、思わず襟を正したものだ。

…この作家は、体内に独自の辞書を持っているのだという印象が胸に刻み込まれた。そしてその辞書はとてつもなく分厚くて、大変に厳格で精緻で、言葉への切実な愛にあふれているのだろうと。

P.257,258

折れた竜骨 下 (創元推理文庫)

折れた竜骨 下 (創元推理文庫)

 もう一人、明らかに自分の中に辞書を持っているなという作家さんをあげたいと思います。それは伊坂幸太郎さんです。

 陽気なギャングシリーズ(これに関してだけシリーズと呼ばせていただく。)の中では、各話の前に辞書のようなものがついています。今回は第1作の『陽気なギャングが地球を回す』から引用します。

P.30,31

うちーあわせ【打ち合わせ】

①ぴったり合わせること。②前もって相談すること。③打楽器を演奏すること。④会社員の労働の大部分を占める作業。参加者の数に比例して時間がながくなる。声の大きい人が主導権を握る。有意義なものは稀、最終的には開始前の状態に戻ることも多い。

P.242

とびーいり【飛び入り】

仲間でない者が、不意に加入すること。また、その人。事前説明を行うと反対されることが明確な場合に、同意を得ずに堂々と参加してくること。「僕は君の人生に−参加した」

陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

 

やや面白おかしく書いているとしても、この人も自分の中で言葉に対する独自の明確なイメージがあるのは間違いないように感じられますね。

 

文章を書く職業である作家は、誰もが当然自分の中に辞書を持っているのでしょう。

さらには、私は作家ではないすべての人も、やはりその人の好きな語彙があり、独自の辞書を持っているのだと思います。

 

私が、かつて好きになった女性がいました。女の人はよく「カワイイ」を連発します。別にそれ自体に私は批判的な気持ちは特にありません。しかし、私が好きになったその女性は、世の多くの女性が「カワイイ」という場面で、「素敵」という言葉を使う人でした。

私は、その女性から「素敵」という言葉が発せられる度に、あなたがそれに対して「素敵」という感性と、その「素敵」という語彙を選ぶあなたのその感性が「素敵」だよ!!!!!と心の中で叫んでいました。キモいですね。えぇ、当然ですが、その女性とは何もありませんでした。

その言葉に対する自分の明確なイメージはその人の言葉遣いにあらわれるものだと思います。素敵な言葉遣いをする人ほど厚い自分独自の辞書をもっているのだと思います。

 

私も常々、自分の中に自分の独自の辞書を作れるぐらいに言葉に対して誠実でいたいと思います。

 

辞書作りというと、2012年の本屋大賞を受賞した三浦しをんさんの『舟を編む』も大変素敵な本ですね。辞書と言葉について考えさせられます。 

 

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)

 

 

 そして、面白いのがお笑い芸人でありながら、一橋大学の非常講師をしていたりサンキュータツオさん。国語辞書マニアな一面があります。私はTBSラジオの「安住紳一郎の日曜天国」でのお話が大変面白かったです。

 

私も自分の辞書を作りたいと思っています。だからこの記事は定期的に更新して私の辞書を載せてていきたいと思います。

 

三省堂『現代新国語辞典』第3版 参考

 

おこる

【怒る】<自動五段>

①感情的に任せて相手にあたる。いかる。

②これを行うことによって決して得をすることはない。短気は損気。「叱る」とは全く別の行為。

③客観的で論理的な視点を自己の内部に持つことで抑えることができる。

 

おとこ

【男】<名>

①体に男性器を持ち、身体が男性であるとともに、性自認が男性である人のこと。性別を切り取ったやや前時代的概念。子供を生むことができない。動物でいうとオス。一般的に筋肉量が女性よりも多い。

②だいたいバカ。

③女性よりも性犯罪の数が多い。性欲と愛情との結びつきが女性よりも薄い。

 

きたい

【期待】<名・他動サ変>

①時間的、資力的、能力的に自分が及ばないという諦めからでる言葉。

②自分に自信がある時には使ってはいけない。「今度の試合(僕が勝つだろうけど)君にーしてるよ」などは誤用。

 

ことば

【言葉】<名>

①音声や文字によって、意味[=考えや気持ち]を表現・伝達・理解する活動。またその音声や文字。

②人類最大の発明。しかし、これによって自分の考えていること思っていることが全てが伝わることは絶対にないということは覚えておかなければならない。

③人の心に治らない傷を与えかねない大変強力な兵器。かつてはその恐ろしさから言霊と恐れられた。だだし、人を傷つける汚い言葉と人を救う言葉では後者の威力の方が強力。

④類義語の言語といった時には、学術的に文法体系や話者や背景に文化などで分けたものを指す。言葉と言う時には幅広くゆるい概念。言語より日常に溶け込んでいてよく使われる。言語使いが悪いとは言わないのがその証拠。

➄これ(どちらかと言うと言語ということが多いが)により人間は世界を切り取っており、理解することが可能となる。

 

コミュニケーション能力

<名・自動サ変> [communi-cation]+能力<名>

①企業が今一番就活生に求めているもの。

②コミュニケーションという外来語をそのまま日本で使っているためイマイチその実態が掴めないもの。

③コミュニケーションの方法は実に様々であり、人によって全然違うので何がコミュニケーション能力かはわからない。

④コミュニケーションは、だいたいは信頼関係を前提とし、自分とは違う相手への思いやりによって成立する。決して仲のいい仲間内だけで面白おかしく楽しく盛り上がれる能力とは関係ない。人見知りで人と仲良くなるスピードが遅いということもコミュニケーション能力の高さとは関係ない。

 

しかる

【叱る】<他動詞五段>

①怒るとは別の行為。怒るが自動詞であり、相手を必要としないのに対し、叱るは叱る対象が必要な他動詞であることがその証拠。

②叱るとは強い言葉で相手を注意することだが、感情的であってはそれは怒るになってしまう。相手のことを考え、これからはその行動をとって欲しくないという強い思いから強い注意をするときに使う言葉。

 

じしょ

【辞書】<名>

①あなたが今読んでいるこれ。

②人類が作った素敵なものの一つ。

 

 ふつう・じょうしき

【普通・常識】<名・形動>

①その時代のその場所の人間の多数がそうだと思うことの集まり。結局は多数決のため偏見のことも多い。後の時代には変わることが多い。

②世間の多数の人が「当然だろ」という考えのもと押し付けがちな価値観。

③実はそんなものどこにもない。

 

この記事を書いてる人ってこんな人

白か黒かがわからない変な人

私は小、中、高、大と関わりを持った人から変だと言われてきた。

周りからすると何事もないように見えるようだが、明らかに人とズレていた。

普通の人が普通にできることが、普通の人が普通に分かることがわからない。

特に人間関係だ。

私は白黒はっきりつかないと分からないのだ。

世の中には良い人か悪い人、白か黒か、それがハッキリしないと理解できないのだ。そこには灰色や白と黒のまだら模様は存在しない。

当然すぎる話なのだが、人にはそれぞれ良いところもあれば悪いところもあるのだ。

自分に対してとても親切にしてくれて、とても優しく面倒を見てくれる人(以降Aさん)がいたとして、その人(Aさん)が自分以外の他の人の悪口や暴言を吐いていたとする。

私の頭はもうエラーがでた機械のようになる。

その時、私の頭ではこうなっている。

実際は、Aさんは白地に黒い点がポツポツある程度なのだ。(基本的には良い人で、ところどころ悪いところがある。)

しかし、私の残念な頭は白か黒かでないと認識できない。だから、Aさんが悪口や暴言を言い出した時、私はほんの少しのAさんの黒い部分を顕微鏡のように拡大し、画面いっぱいを黒にして、黒として認識するしかない。

しかし、そうすると普段白であるAさんが、その瞬間は黒になるのである。白いはずのAさんが黒色なのだ。

もう意味がわからない。矛盾しているではないか。

こんな残念な頭だから、大抵の人は黒にしかならない。ずっと白な人は少ない。人間なんか嫌いだとなる。

そして自分自身に対するジャッジも当然、黒だ。自分のことなんか大嫌いだ。

他人も信用できない。Aさんが他人の悪口を陰で言うのだから、自分も陰で悪く言われているに違いない。こうなって来ると人間不信だ。

しかし、悪口というのは、その場の人間でその場にいない人間の悪口を言ってその場の結束力を高めるみたいなところがある。

だけど私は、自分が黒になってしまうから人の悪口は嫌いだ。人の悪口にはあまり同調できない。そうすると、周りからは八方美人扱いされ、いい子ぶりっことなる。人とは関係を築くのが難しい。

私の人間関係が難しい理由は他にもいっぱいあって、例えば多くの人が興味のあるものに興味がない。笑いのツボがズレている。自分では何が面白いのかわからないが笑われてしまう。数えればキリがない。

 発達障害に興味を持つ。だが違う。

そんな中、私は高校の時にアスペルガー症候群という存在を知った。

発達障害の一種で対人関係に問題を感じるらしい。

大変興味がわいた。先にいってしまうが結論として、私は発達障害ではなかった。発達障害の診断をしていただける機関で知能テスト(田中ビネー知能検査)を受けて違うとの診断がでた。

でも発達障害の人の症状であてはまることは多い気がする。注意欠落と過集中なども感じなくもない。

精神疾患でもない。

私は、精神的に追い詰められていた高校時代にうつ病と診断された。

精神病の多くの人が複数の機関を受診するように2つだけだが精神科の病院を訪れてどちらでもうつ病との診断を受けた。結果的に抗うつ薬も服用したが、服用したことでむしろ調子が悪くなったので結局はうつ病ではなかったようだ。

その後、少し調子がよくなって、予備校にかよったがまた調子が悪くなり、今度はカウンセリングを受けた。そこで話をしたのは主に対人関係についてだったので、対人恐怖症との診断を受けた。また、普通の人になじむための方法を少し習った。

人の話をニコニコ笑顔で相槌をうって聞くこと。自分がどういう人と人間関係を築けばいいのか築きたいのかを考えることなどなど…

そして実は話が前後したが、アスペルガー症候群を知ったのは高校時代で、うつ病と診断される前で、私が発達障害かどうかの診断を受けたのはこのカウンセリングの後だ。

発達障害の診断された機関では、発達障害とは言えないのだが、カウンセリングと同様に人との関わり方についての指導をいただいた。人との付き合い方について論理的に教えてくれる人は、今まで誰一人としていなかった。なんでなんだろうとも思ったし、普通の人は教わらなくても自然にわかってできることなんだろうなとも思った。

発達障害でも精神疾患でもなければじゃあ私は一体…

私の生き苦しさの原因はなんなのだろう。発達障害のせいでもなければ、精神疾患のせいでもない。じゃあ、私の努力が足りないせいなのだろうか。今まで人生でちゃんと年相応の経験を積んでこなかったからだろうか。人が普通に感覚でわかることをいちいち論理で誰かに説明してもらわないとわからないのは私がバカだからなのだろうか。

何の理由もなければツラすぎる。だから、私は勝手に自分のことを「マイナス感情の大きい人」「発達障害と普通の人ととのグレーゾーン」とすることにした。(言ってしまえばただの情緒不安定な人でしかない。)

感情の大きい人

私は、感情が大きい。それはとても自分の心では制御できないほどに大きい。いつでも感情の洪水と戦っている。正確には戦うすべもなく流されている。

気分が落ち込むと体のあらゆるところに不調をきたす。

お腹を下すのは基本。

気分が重くなれば体も重くなる。自分の周りだけ急に重力が大きくなったような体の重さが襲う。特に背中は、筋肉が凝っているような、神経痛のような、痛いというには大げさだが明らかに調子が悪くなる。

ストレスを急激に感じる場面では異様な汗をかく。しかもその汗をかいたときは独特の嫌な匂いが自分からするのを感じ取れる。体が暑くなり、全身の毛穴がいたんでいるのかなんなのか、細く小さな無数の針で刺されたようなチクチクとした痛みが襲う。

胃や心臓のあたりが痛くなる。

横になって呼吸をするのがやっとのような感じがしてくる。

頭が痛む。頭がボーとする。耳鳴りのようなキーンという音が頭の中で鳴っている。

人のしゃべっている声がたくさんある中で一人でいるとと息が詰まる。日本語が外国語のように聞こえてくる。調子が悪いと人の話しているマイナスな言葉が全部自分に向けられて発せられているような感覚を受ける。自分の知り合いが、聞こえるはずのない距離で友達としゃべっていても、それが自分のことを悪く言い合い、嘲笑しているように見え出す。一番ひどかった時だと内容が聞こえてきた。あれは幻聴だったのだろうか。未だにわからない。

過去の記憶に囚われ、時間が止まる。

気分が落ちこんでくると過去にあった嫌なことを芋ずりしきに思い出していく。本当に調子が悪い時は、映像つきで思い出すようなところもある。これは正確にはフラッシュバックというものではないのだろうが、説明するならフラッシュバックというしかないのだろう。

人は記憶を思い出し、それを追体験し、その時の感情が思い起こされている時は、その人はその時間を生きているといっていいと思う。震災や大切な人の死を経験した人などが、その記憶から逃れがたく、私の中ではあの日から時間が止まっているというのもそういうことであると思う。

一緒にするには次元が低くて申し訳ないが、高校時代の私もそうだった。中学時代、高校受験の頃の記憶に心は支配され、時間が止まっていた。いつもあの頃にこうしていればということに取り憑かれ、過去の中の時間を過ごし続け、現在を生きていなかった。高校時代は私にとって、とてもツラく苦しかった。あの当時は、このツラさが永遠に続くように感じられ、高校の3年間という時間も果てしないように感じられた。しかし、大学受験の迫るスピードだけはとても早く感じられた。そして、高校時代も振り返ってみるとツラく苦しかったという記憶はあるのだが細部がぼやけてはっきりしない。高校の三年間だけぽっかりと空白が空いたような感覚に今では襲われる。それは、過去にとらわれ、現在を生きていない時間であったからだと思う。または、嫌すぎる記憶は思い出せないように無意識で蓋をしているのかもしれない。

私が本が好きな理由〜本は心を軽くする〜

私が本が好きな理由は心を軽くしてくれるという一点に尽きると思う。

楽しい物語の世界は、嫌な現実を忘れられる。忘れさせてくれる。文章を読むことに集中できれば、他のことは考えられないし、考えなくて済む。

そして、本を読んでいると、優れた感性を持ち、かつ、それを言語化することができるほどの知能と文章能力のある人たちが「あぁ、この感覚は自分だけじゃないんだ」と思える文章を書いてくれている。

また、自分には今までなかった新しい発想・考え方を文章を通して教えてくれ、心を軽くしてくれる。自分が今まで思い込んできた偏見を解きほぐしてくれ、認知の歪みが消えていく。

 

私の心を軽くする本、自分だけじゃないと思える本。

 

脳が壊れた (新潮新書)

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