ネガティブをポジティブに捉える。

ネガティブなことをポジティブに捉えるとはいったい何を言っているのかと思われるかもしれない。もっと正確に言うのであれば、自分がネガティブであることをポジティブに捉える。または、ネガティブなことをポジティブに言い換えてみると言えるかもしれない。

 

例えば、何事にも不安を感じ、物事の悪い面ばかりを見てしまうとする。しかし、それは言ってしまえば、誰よりもリスク管理がしっかりしており、物事の欠点を見つけることに長けていると言えるかもしれない。

 

ネガティブとポジティブは陰と陽である。光(陽)があるところに影(陰)がある。影があることから光のある方向がわかり、影の形から実物を見ずに物の形がわかる。

写真は、ネガを使ってたくさんのポジを現像する。(現在のデジタルカメラは違うが)

ネガがあれば、同じポジをたくさん作れる。

世の中の真理に近いものに諸行無常があると思う。これは少しネガティブな香りがする。しかし、この諸行無常(ネガ)に端を発すして、「やまない雨はない」、「人の噂も七十五日」などの(ポジ)を引き出せると思う。

 

文学も同じような事が言えると私は思っている。明るいポジティブな話ばかりの物語が面白いかといえば違うと思う。ネガティブな話の方が面白い。もしくは、山あり谷ありな物語が面白いのだ。ネガティブなところがあるからポジティブが際立つのだ。ネガティブな感情、感覚こそ人の根底を流れていて、時代を超えて人の心に届くと思う。

 

どうしてもネガティブな考えに陥った時、理性をもって論理的にそれを否定することは有効だ。そうすべきだ。物事に前向きに取り組むことは大事だ。

しかし、ネガティブな考えが悪い事だとは完全には言い切れない。いつもいつもネガティブに考えてしまって自分が嫌になる、という人はネガティブなことをポジティブに捉えてみたらどうだろうか。

 

優柔不断は慎重。融通が効かないは真面目。言い換えは簡単だ。

自分の悪いところを認めないで開き直っていては人間として成長しないではないか。

そんな風に思ったあなた。すぐに否定的な事が思いつき、別の面に気づくあなた。きっとあなたはネガティブな人だと私は思います。

ポジティブな人は最初から「オレ真面目だから」、「私は慎重に行動する事ができます!」と言ってしまうのだきっと。そして何より、ポジティブな人はこのブログを、こんな記事を読みにはこないだろう。

 もっと自分に自信を持ってと言われても、いやでも…とポジティブに絶対になれないあなたは少し開き直り気味の方が調子がよかったりするのだ。自分を無理やりポジティブにする必要はないが、必要以上に下げすぎる必要はないのだ。自分を下げすぎてしまうあなたはちょっと持ち上げるぐらいがちょうどいいのだ。

 

巷には、ポジティブが優れているという理論ばかりが溢れている。そんなことはない。ポジティブとネガティブは等価値だ。幸も不幸もない。そしてなんなら中庸が一番だと思う。

 

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ネガティブな性格は生まれつき - 鬱々とした日々

自分の中に独自の辞書をつくる

かの有名なナポレオンは言いました。

余の辞書に不可能の文字はない

実際には、少し違うのではという議論(→ナポレオンの 吾輩の辞書に不可能はない ってアホな訳をしたのは... - Yahoo!知恵袋)があるようですが、私はこの言葉好きです。

私はネガティブなので「いやいや、不可能なことなんてありありでしょ」と思います。私が好きなのはその内容ではなく。「余の辞書」という部分です。

みなさんは自分の中に辞書をもっていますか?私は自分の中に辞書を持ちたいと常々思っています。

私の大大大好きな作家の米澤穂信さんの古典部シリーズ第3作『クドリャフカの順番』の中で、福部里志はこのようなことを言います。以下は伊原と里志の会話の場面です。

※「…」は中略、福、伊は私が勝手につけました。

 

福「国語の苦手なひと、かな」

伊「ふうん、赤点でも取ったの?」

「いいや、そういうんじゃなくてね。言葉の使い方がずっと間違ってるんだ」

福「自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃあいけない

福「なんでも『広辞苑によれば』って書き出しは紋切り型の一つなんだっててね。じゃあ僕は、広辞苑にどう書いてあるかは知らないけど、と言おうかな。広辞苑にどうかいてあるかは知らないけどね、摩耶花。期待っていうのは、諦めから出る言葉なんだよ。

福「時間的にとか資力的にとか、能力的にとか、及ばない諦めが期待になるんだよ。ネルソンが英国は諸君がその義務を果たすことを期待するっていう旗を掲げたとき、ネルソンは自分一人でフランスに勝てるとは思っていなかった。期待ってのは、そうせざるを得ないどうしようもなさを含んでいなきゃどうにも空々しいよ。…」 

P.346,347

クドリャフカの順番 (角川文庫)

クドリャフカの順番 (角川文庫)

 赤い部分だけ引用すれば済む話なのですが、あまりに素敵なシーンなので長々と引用してしまいました。この作品は、4人の視点で描かれている作品であり、4人ともが主人公と言ってしまっていいぐらいです。

そして、福部里志を主人公として見た時に、彼の文化祭での物語は、この「期待」という漢字二文字とその裏にある「憧れと諦め」がテーマといって良いのでこの場面だけを読んで、この「期待」の言葉の重さは全然伝わらないので、ぜひよんで欲しいと思います。

この部分を引用して私が言いたかったのは、福部里志もとい米澤穂信さんは、自分の中に独自の辞書をもっているということです。

そのことは私なんかの何万倍もうまく、『折れた竜骨』(米澤穂信さん)の解説に森谷明子さんが書いてくれている。というか私も、この解説を読んで気づいた節もある。(森谷明子さんもクドリャフカとその他の作品の一節を引用している。)

※「…」は中略

…プロットの緻密さやキャラクターの造形の巧みさはもちろんなのだが、それ以上に感銘を受けたものがある。

…彼らは(つまり作者は)とにかく言葉遣いの細部にまで気を配っているのだ。

…米澤氏の作品に登場する人物の多くは、このように言葉をとことん吟味する。慎重に、臆病とさえ言えるほどに、正確に伝わっているかどうかに心を砕く。

…作者の言葉の使い方の細やかさと厳しさに、思わず襟を正したものだ。

…この作家は、体内に独自の辞書を持っているのだという印象が胸に刻み込まれた。そしてその辞書はとてつもなく分厚くて、大変に厳格で精緻で、言葉への切実な愛にあふれているのだろうと。

P.257,258

折れた竜骨 下 (創元推理文庫)

折れた竜骨 下 (創元推理文庫)

 もう一人、明らかに自分の中に辞書を持っているなという作家さんをあげたいと思います。それは伊坂幸太郎さんです。

 陽気なギャングシリーズ(これに関してだけシリーズと呼ばせていただく。)の中では、各話の前に辞書のようなものがついています。今回は第1作の『陽気なギャングが地球を回す』から引用します。

P.30,31

うちーあわせ【打ち合わせ】

①ぴったり合わせること。②前もって相談すること。③打楽器を演奏すること。④会社員の労働の大部分を占める作業。参加者の数に比例して時間がながくなる。声の大きい人が主導権を握る。有意義なものは稀、最終的には開始前の状態に戻ることも多い。

P.242

とびーいり【飛び入り】

仲間でない者が、不意に加入すること。また、その人。事前説明を行うと反対されることが明確な場合に、同意を得ずに堂々と参加してくること。「僕は君の人生に−参加した」

陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

 

やや面白おかしく書いているとしても、この人も自分の中で言葉に対する独自の明確なイメージがあるのは間違いないように感じられますね。

 

文章を書く職業である作家は、誰もが当然自分の中に辞書を持っているのでしょう。

さらには、私は作家ではないすべての人も、やはりその人の好きな語彙があり、独自の辞書を持っているのだと思います。

 

私が、かつて好きになった女性がいました。女の人はよく「カワイイ」を連発します。別にそれ自体に私は批判的な気持ちは特にありません。しかし、私が好きになったその女性は、世の多くの女性が「カワイイ」という場面で、「素敵」という言葉を使う人でした。

私は、その女性から「素敵」という言葉が発せられる度に、あなたがそれに対して「素敵」という感性と、その「素敵」という語彙を選ぶあなたのその感性が「素敵」だよ!!!!!と心の中で叫んでいました。キモいですね。えぇ、当然ですが、その女性とは何もありませんでした。

その言葉に対する自分の明確なイメージはその人の言葉遣いにあらわれるものだと思います。素敵な言葉遣いをする人ほど厚い自分独自の辞書をもっているのだと思います。

 

私も常々、自分の中に自分の独自の辞書を作れるぐらいに言葉に対して誠実でいたいと思います。

 

辞書作りというと、2012年の本屋大賞を受賞した三浦しをんさんの『舟を編む』も大変素敵な本ですね。辞書と言葉について考えさせられます。 

 

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)

 

 

 そして、面白いのがお笑い芸人でありながら、一橋大学の非常講師をしていたりサンキュータツオさん。国語辞書マニアな一面があります。私はTBSラジオの「安住紳一郎の日曜天国」でのお話が大変面白かったです。

 

私も自分の辞書を作りたいと思っています。だからこの記事は定期的に更新して私の辞書を載せてていきたいと思います。

 

三省堂『現代新国語辞典』第3版 参考

 

おこる

【怒る】<自動五段>

①感情的に任せて相手にあたる。いかる。

②これを行うことによって決して得をすることはない。短気は損気。「叱る」とは全く別の行為。

③客観的で論理的な視点を自己の内部に持つことで抑えることができる。

 

おとこ

【男】<名>

①体に男性器を持ち、身体が男性であるとともに、性自認が男性である人のこと。性別を切り取ったやや前時代的概念。子供を生むことができない。動物でいうとオス。一般的に筋肉量が女性よりも多い。

②だいたいバカ。

③女性よりも性犯罪の数が多い。性欲と愛情との結びつきが女性よりも薄い。

 

きたい

【期待】<名・他動サ変>

①時間的、資力的、能力的に自分が及ばないという諦めからでる言葉。

②自分に自信がある時には使ってはいけない。「今度の試合(僕が勝つだろうけど)君にーしてるよ」などは誤用。

 

ことば

【言葉】<名>

①音声や文字によって、意味[=考えや気持ち]を表現・伝達・理解する活動。またその音声や文字。

②人類最大の発明。しかし、これによって自分の考えていること思っていることが全てが伝わることは絶対にないということは覚えておかなければならない。

③人の心に治らない傷を与えかねない大変強力な兵器。かつてはその恐ろしさから言霊と恐れられた。だだし、人を傷つける汚い言葉と人を救う言葉では後者の威力の方が強力。

④類義語の言語といった時には、学術的に文法体系や話者や背景に文化などで分けたものを指す。言葉と言う時には幅広くゆるい概念。言語より日常に溶け込んでいてよく使われる。言語使いが悪いとは言わないのがその証拠。

➄これ(どちらかと言うと言語ということが多いが)により人間は世界を切り取っており、理解することが可能となる。

 

コミュニケーション能力

<名・自動サ変> [communi-cation]+能力<名>

①企業が今一番就活生に求めているもの。

②コミュニケーションという外来語をそのまま日本で使っているためイマイチその実態が掴めないもの。

③コミュニケーションの方法は実に様々であり、人によって全然違うので何がコミュニケーション能力かはわからない。

④コミュニケーションは、だいたいは信頼関係を前提とし、自分とは違う相手への思いやりによって成立する。決して仲のいい仲間内だけで面白おかしく楽しく盛り上がれる能力とは関係ない。人見知りで人と仲良くなるスピードが遅いということもコミュニケーション能力の高さとは関係ない。

 

しかる

【叱る】<他動詞五段>

①怒るとは別の行為。怒るが自動詞であり、相手を必要としないのに対し、叱るは叱る対象が必要な他動詞であることがその証拠。

②叱るとは強い言葉で相手を注意することだが、感情的であってはそれは怒るになってしまう。相手のことを考え、これからはその行動をとって欲しくないという強い思いから強い注意をするときに使う言葉。

 

じしょ

【辞書】<名>

①あなたが今読んでいるこれ。

②人類が作った素敵なものの一つ。

 

 ふつう・じょうしき

【普通・常識】<名・形動>

①その時代のその場所の人間の多数がそうだと思うことの集まり。結局は多数決のため偏見のことも多い。後の時代には変わることが多い。

②世間の多数の人が「当然だろ」という考えのもと押し付けがちな価値観。

③実はそんなものどこにもない。

 

この記事を書いてる人ってこんな人

白か黒かがわからない変な人

私は小、中、高、大と関わりを持った人から変だと言われてきた。

周りからすると何事もないように見えるようだが、明らかに人とズレていた。

普通の人が普通にできることが、普通の人が普通に分かることがわからない。

特に人間関係だ。

私は白黒はっきりつかないと分からないのだ。

世の中には良い人か悪い人、白か黒か、それがハッキリしないと理解できないのだ。そこには灰色や白と黒のまだら模様は存在しない。

当然すぎる話なのだが、人にはそれぞれ良いところもあれば悪いところもあるのだ。

自分に対してとても親切にしてくれて、とても優しく面倒を見てくれる人(以降Aさん)がいたとして、その人(Aさん)が自分以外の他の人の悪口や暴言を吐いていたとする。

私の頭はもうエラーがでた機械のようになる。

その時、私の頭ではこうなっている。

実際は、Aさんは白地に黒い点がポツポツある程度なのだ。(基本的には良い人で、ところどころ悪いところがある。)

しかし、私の残念な頭は白か黒かでないと認識できない。だから、Aさんが悪口や暴言を言い出した時、私はほんの少しのAさんの黒い部分を顕微鏡のように拡大し、画面いっぱいを黒にして、黒として認識するしかない。

しかし、そうすると普段白であるAさんが、その瞬間は黒になるのである。白いはずのAさんが黒色なのだ。

もう意味がわからない。矛盾しているではないか。

こんな残念な頭だから、大抵の人は黒にしかならない。ずっと白な人は少ない。人間なんか嫌いだとなる。

そして自分自身に対するジャッジも当然、黒だ。自分のことなんか大嫌いだ。

他人も信用できない。Aさんが他人の悪口を陰で言うのだから、自分も陰で悪く言われているに違いない。こうなって来ると人間不信だ。

しかし、悪口というのは、その場の人間でその場にいない人間の悪口を言ってその場の結束力を高めるみたいなところがある。

だけど私は、自分が黒になってしまうから人の悪口は嫌いだ。人の悪口にはあまり同調できない。そうすると、周りからは八方美人扱いされ、いい子ぶりっことなる。人とは関係を築くのが難しい。

私の人間関係が難しい理由は他にもいっぱいあって、例えば多くの人が興味のあるものに興味がない。笑いのツボがズレている。自分では何が面白いのかわからないが笑われてしまう。数えればキリがない。

 発達障害に興味を持つ。だが違う。

そんな中、私は高校の時にアスペルガー症候群という存在を知った。

発達障害の一種で対人関係に問題を感じるらしい。

大変興味がわいた。先にいってしまうが結論として、私は発達障害ではなかった。発達障害の診断をしていただける機関で知能テスト(田中ビネー知能検査)を受けて違うとの診断がでた。

でも発達障害の人の症状であてはまることは多い気がする。注意欠落と過集中なども感じなくもない。

精神疾患でもない。

私は、精神的に追い詰められていた高校時代にうつ病と診断された。

精神病の多くの人が複数の機関を受診するように2つだけだが精神科の病院を訪れてどちらでもうつ病との診断を受けた。結果的に抗うつ薬も服用したが、服用したことでむしろ調子が悪くなったので結局はうつ病ではなかったようだ。

その後、少し調子がよくなって、予備校にかよったがまた調子が悪くなり、今度はカウンセリングを受けた。そこで話をしたのは主に対人関係についてだったので、対人恐怖症との診断を受けた。また、普通の人になじむための方法を少し習った。

人の話をニコニコ笑顔で相槌をうって聞くこと。自分がどういう人と人間関係を築けばいいのか築きたいのかを考えることなどなど…

そして実は話が前後したが、アスペルガー症候群を知ったのは高校時代で、うつ病と診断される前で、私が発達障害かどうかの診断を受けたのはこのカウンセリングの後だ。

発達障害の診断された機関では、発達障害とは言えないのだが、カウンセリングと同様に人との関わり方についての指導をいただいた。人との付き合い方について論理的に教えてくれる人は、今まで誰一人としていなかった。なんでなんだろうとも思ったし、普通の人は教わらなくても自然にわかってできることなんだろうなとも思った。

発達障害でも精神疾患でもなければじゃあ私は一体…

私の生き苦しさの原因はなんなのだろう。発達障害のせいでもなければ、精神疾患のせいでもない。じゃあ、私の努力が足りないせいなのだろうか。今まで人生でちゃんと年相応の経験を積んでこなかったからだろうか。人が普通に感覚でわかることをいちいち論理で誰かに説明してもらわないとわからないのは私がバカだからなのだろうか。

何の理由もなければツラすぎる。だから、私は勝手に自分のことを「マイナス感情の大きい人」「発達障害と普通の人ととのグレーゾーン」とすることにした。(言ってしまえばただの情緒不安定な人でしかない。)

感情の大きい人

私は、感情が大きい。それはとても自分の心では制御できないほどに大きい。いつでも感情の洪水と戦っている。正確には戦うすべもなく流されている。

気分が落ち込むと体のあらゆるところに不調をきたす。

お腹を下すのは基本。

気分が重くなれば体も重くなる。自分の周りだけ急に重力が大きくなったような体の重さが襲う。特に背中は、筋肉が凝っているような、神経痛のような、痛いというには大げさだが明らかに調子が悪くなる。

ストレスを急激に感じる場面では異様な汗をかく。しかもその汗をかいたときは独特の嫌な匂いが自分からするのを感じ取れる。体が暑くなり、全身の毛穴がいたんでいるのかなんなのか、細く小さな無数の針で刺されたようなチクチクとした痛みが襲う。

胃や心臓のあたりが痛くなる。

横になって呼吸をするのがやっとのような感じがしてくる。

頭が痛む。頭がボーとする。耳鳴りのようなキーンという音が頭の中で鳴っている。

人のしゃべっている声がたくさんある中で一人でいるとと息が詰まる。日本語が外国語のように聞こえてくる。調子が悪いと人の話しているマイナスな言葉が全部自分に向けられて発せられているような感覚を受ける。自分の知り合いが、聞こえるはずのない距離で友達としゃべっていても、それが自分のことを悪く言い合い、嘲笑しているように見え出す。一番ひどかった時だと内容が聞こえてきた。あれは幻聴だったのだろうか。未だにわからない。

過去の記憶に囚われ、時間が止まる。

気分が落ちこんでくると過去にあった嫌なことを芋ずりしきに思い出していく。本当に調子が悪い時は、映像つきで思い出すようなところもある。これは正確にはフラッシュバックというものではないのだろうが、説明するならフラッシュバックというしかないのだろう。

人は記憶を思い出し、それを追体験し、その時の感情が思い起こされている時は、その人はその時間を生きているといっていいと思う。震災や大切な人の死を経験した人などが、その記憶から逃れがたく、私の中ではあの日から時間が止まっているというのもそういうことであると思う。

一緒にするには次元が低くて申し訳ないが、高校時代の私もそうだった。中学時代、高校受験の頃の記憶に心は支配され、時間が止まっていた。いつもあの頃にこうしていればということに取り憑かれ、過去の中の時間を過ごし続け、現在を生きていなかった。高校時代は私にとって、とてもツラく苦しかった。あの当時は、このツラさが永遠に続くように感じられ、高校の3年間という時間も果てしないように感じられた。しかし、大学受験の迫るスピードだけはとても早く感じられた。そして、高校時代も振り返ってみるとツラく苦しかったという記憶はあるのだが細部がぼやけてはっきりしない。高校の三年間だけぽっかりと空白が空いたような感覚に今では襲われる。それは、過去にとらわれ、現在を生きていない時間であったからだと思う。または、嫌すぎる記憶は思い出せないように無意識で蓋をしているのかもしれない。

私が本が好きな理由〜本は心を軽くする〜

私が本が好きな理由は心を軽くしてくれるという一点に尽きると思う。

楽しい物語の世界は、嫌な現実を忘れられる。忘れさせてくれる。文章を読むことに集中できれば、他のことは考えられないし、考えなくて済む。

そして、本を読んでいると、優れた感性を持ち、かつ、それを言語化することができるほどの知能と文章能力のある人たちが「あぁ、この感覚は自分だけじゃないんだ」と思える文章を書いてくれている。

また、自分には今までなかった新しい発想・考え方を文章を通して教えてくれ、心を軽くしてくれる。自分が今まで思い込んできた偏見を解きほぐしてくれ、認知の歪みが消えていく。

 

私の心を軽くする本、自分だけじゃないと思える本。

 

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)

 

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私の脳は壊れているのだろうか - 鬱々とした日々

 

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ネガティブな性格は生まれつき - 鬱々とした日々

 

 

コンビニ人間

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 誰も「普通」の振る舞い方を教えてはくれない。だけど世間は「普通」を求めてくる。

自分にあった生き方とは。

 

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ネガティブな性格は生まれつき

人には性格があります。しかし、性格にも色々あるのです。

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性格を構成する4つの要素

気質(生まれつき性格)
これは生まれつき持っている性格の根っこの部分です。
気質は後天的に変える事ができません。
変えることができるのは行動です。
自分がどういう気質かよく知る事が大切なのですが、気質はとても複雑でカウンセラーでも会ったばかりの人の気質を見抜くのは容易ではありません。そのため、お話を聴いて、その人気質が何なのか考えることが必要なのです。


狭義の性格(人格)
狭義の性格は気質を包み込むようにして存在しています。
この性格は、ほぼ幼少期に養育者(親など)の影響により確立されます。
 「3つ子の魂100まで」という言葉があるように、この性格は大人になってからはほとんど変わりません。大切なのは、気質と同じく自分の狭義の性格をよく理解しどう活かすかということです。この性格が作られた責任は養育者にあります。


習慣的性格
習慣的性格は狭義の性格を包むように存在しており、自分を取り巻く環境(人、物、出来事)にどう関わるかということに影響を与えます。
例えば、友達と喧嘩をした時に自分も悪かったと理解していながら、素直に自分から謝るのか、もしくは相手から謝ってくるまで意地を張るのかという『態度』が習慣的性格なのです。この習慣的性格は自分の意思で変えることができます。『性格を変える』という事は、環境と接する態度を変える事なのです。他人や物事にどういう態度で接しているかによって、自分の日常の感じ方も変わるでしょう。人にやさしく誠実に接していれば、他人にもやさしく誠実に接してもらえる事が増え、物事を前向きに捉え、行動を前向きにすれば良い結果を得る事も増えるでしょう。
習慣的性格を見直す事で、自分の日常をより良くしていくことが可能なのです。


役割性格
さらに習慣的性格を包むように役割性格があります。
この性格は日常の様々な場面に応じて意識的、無意識的に変化しています。
人は、会社や家庭、友人関係、地域など様々な場面でそれぞれの役割を担っています。
日常生活の様々な環境に適応する為には、役割性格をそれぞれの環境に合わせて柔軟に変えることが必要となります。
人は年を重ねるにつれ適応しなければならない環境が増えていきます。
さまざまな役割性格を使い分けることは、社会に適応していく為の大切な技術なのです。

http://axia-co.com/seikaku/shikumi.html

上記の部分で青の部分だけは私は個人的には少し納得しかねますが、この気質(生まれつき性格)を知ることは大切だと思います。この気質がネガティブな人だっているのです。そこでこの本が私にはまさにピタリときました。

そして、言ってしまえば、気質(生まれつき性格)と狭義の性格(人格)は先天的性格。習慣的性格と役割性格は後天的性格。後天的なものは変えることができるのです。

いわゆる性格を変えたいといった時に変えるのは後天的性格。自分の変わらない先天的性格について知ることは、もう一度言いますが、本当に大切です。

 

 気質を大きくネガティ(ネガティブ)とポジティ(ポジティブ)に分けて考えています。そしてどちらかといえばネガティによって書いてくれているのです。

世の中でネガティブに生きているともっと「ポジティブにいかないからだよ」、「そうやってネガティブに考えるからだよ」といった言葉を押し付けられて「そんなことを言われても…」と思うことはないでしょうか。

そんな人にオススメします。

ネガティブな人がよりよく生きていくためのいろいろなことが書かれています。

読んだ後に気持ちが軽くなるかもしれません。

性格に良いも悪いもありません。幸も不幸もありません。ネガティブでも良いのです。むしろネガティブにしかできないことがあると思います。

私の脳は壊れているのだろうか

 

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)

 

 

発達障害の妻を持ち、社会からこぼれ落ちた人を取材するルポライターである著者。著者が41歳の時に脳梗塞で倒れ、後遺症として高次機能障害になってしまった。それは、後天的発達症がと言ってもいい状況であり、 妻や今まで取材してきた社会からこぼれ落ちた人たちが抱えていたことを本当の意味で理解することになった。当事者感覚の言語化に努めている。また、リハビリによる回復の過程は発達の追体験とも言える。

私がこの本の中で共感したのは、精神疾患やそれに近い状況にある人が高次機能障害の一部の症状のような状況になるのではないかということだ。

本書の中で思い当たるものがいくつかある。

私がうつ病と診断されてから、一応もう大丈夫ではないかと言われるまでの期間(以降、「私の精神不安定期」)。(実際には精神病ではなかったと今では思っているが。)私は、音楽を聞いては涙し、アニメを見ても涙をながし、ちょっとしたことで枕を濡らした。本書の中では「感情失禁」と書かれている。

さらには、私も「私の精神不安定期」には本が読めなかった。一行目を通して読む。頭の中で文字が音声として読み上げられる。しかし、意味が全く入ってこない。流れていく。ムーディ勝山状態。そして、ノートを取ることができなかった。集中力が著しく欠如していた。また、あの時期にとった言動は今の自分からすると一体なぜあんなことをしたのか意味がわからない。冷静な判断は全くできていなかっただろう。

嫌な記憶がたくさんフラッシュバックのように脳に思い出された。記憶の時系列がよくわからなくなった。

他にも節々に共感する点が多かった。特に次の部分が私には響いてしまった。

子ども時代の僕が、同級生が当たり前のようにやれることがやれず、みんなが興味を持つものに興味が持てず、自分でも異様に思うような癇癪持ちで、強い孤独とコンプレックスに苛まれていたこと。中学生ぐらいまでは、そんな自身に知的な障害があるのではないかと真剣に悩んでいたこと。そんな僕にとって、僕とは対極にあるハイスペック男子の代表が父だったこと。偉そうなことを言ったけど学校からドロップアウトして誰の言うことも聞かず頑なに我が道を突き進んだ理由が、「進学と企業就職」の道では自分がまるで使い物にならないことを早々に自覚しての自己防衛だったこと。

P215,P216

私は、昔から人と明らかにズレていた。中学時代はいきなりキレて人に暴力を振るったりした。私は、高校時代自分が発達障害ではないかと疑った。著者のようにすごい進学校にいったわけではなかったが、親からの圧を勝手に感じ私立の自称進学校に通い、潰れた。

私が、本が好きな大きな理由の一つに、「あぁ、自分だけじゃないんだこの感覚は」というのがある。自分だけでないという事実は私を安心させる。心が軽くなる。本著は私にとってそんな本の一つだった。

 

私がこの本をネットでたまたま知って読んでみようと思ったのは、発達障害に対しての興味があるからだった。読んでみて思ったのは、感性の高い順に自閉症>その他の発達障害>私のようなタイプ>定型発達ないし、息苦しさをあまり感じない方々なのではないかと傲慢にも思った。

 

内容的に暗い本なのかと思うかもしれないが全くそんなことはない。この著者の文章は悲壮感はなく、どことなく明るさが漂う。

そして、私の中の新書のイメージとも文体がちょっと違った。まぁ、私はそんなに新書を読んだことがないからだろうか。

 

脳が壊れた (新潮新書)

脳が壊れた (新潮新書)

 

 

幸せって…

しあわせって…何だっけ、何だっけ、ポン酢醤油(うまい醤油)があることさ♪

 

キッコーマンのCMソング

歌:明石家さんま作詞:関口菊日出 / 伊藤アキラ、作曲:高橋千佳

 

これって意外と深い。幸せって人それぞれであって、その基準が低ければ低いほど幸せですよね…

何を今更何ありきたりなこといってんだ!

 

そんな声も聞こえてきそうですが、私はこれを実感するのにえらく時間がかかりました。いや、今でもたまに忘れます。

 

毎日散歩することに幸せを感じたり、毎日の食事に幸せに感じたり、究極的には生きていられることに幸せを感じられれば、その人は現代の日本ではかなり幸せになれる確率は高い。一方で、仕事で大成功を収めて、豪邸に住んで、毎日豪華な食事を食べてを幸せと考えるならば、それはとても難しく、限られたほんの少しの人間にしかできず、幸せになれる確率は低い。

 

じゃあ、そんな両極端な生き方・幸せじゃなくて「普通」に生きたい!

 

でも、世間一般で広く言われる、大多数の人が思い描くであろう「普通」を追い求めると、どうしても実際の自分との乖離に絶望してしまう。

まぁ、そもそも「普通」ってなんだって話もあるんですけど…

 

私は、おそらく人より心のエネルギーが低いんです。たぶん。

 

私は、本を読むのは好きです。でも、たくさん読めません。波があって、読めるのは調子がいい時だけです。一生をかけても読み尽くせない、ありとあらゆる名作、傑作といわれるものを読めるだけ読み尽くしたい!そんな欲求だけあっても、読む気力がおきない。ダメな時は、一行読んでもうだめ。文字を追うことはできるけど、頭の中を通過するだけで内容が全く入ってこない。

 

他にも、あんなことやこんなこと、たくさんやってみたいことがあります。

でも、それを実行に移す活力が湧いてこないことが多々あります。本当にツラい時だと、なんだか自分の体が、すごい重力をかけられたかのように重くなり、動かすと体が自分のものじゃないかのようにぎこちなく動き、関節がきしむような、錆び付いたような、ギギギって感じで、水の中に沈められたような感じで、呼吸をして横になっているので精一杯なんじゃないかみたいになって…

 

いわゆる「普通」のことが「普通」にできない。「普通」のことを「普通」にできるってことは本当はすごいことで、実は毎日学校に通うってだけでもすごいことだと思う。

人と関係を持続させることができない。リセット癖がある。なんだか全てを投げ出したくなってしまう。

人とたくさん話すとすごく心のエネルギーを使うらしく、すごく疲れる。相手を傷つけたくないから、言葉をすごく考えてから発したいけど、それを考えてるともう会話は流れて次の話にいってしまう。思いついたまま考えずにしゃべると、相手には、違う風な受け取り方をされてしまったかもしれない。もう一言あれば違ったのに。あんなこと言わなきゃよかった。そんな風に後から後悔に苛まれる。

 いくら「言葉」が優れたものでも、100%自分の中にあるものを伝達するのは不可能だ、とは分かっていても伝達したい。なのに会話だと、どんどん自分が伝達したいものとズレていってしまう。文章だと推敲できる分、少しマシだけどやっぱりズレる。(この文章だって最初にぼんやり書きたいと思っていたのと全然違う。)

どうやって人とコミュニケーションを取ればいいのだろうか。 

 

こんな私はどうやって生きていけばいいのだろう。

自分に合った生き方はどんなものか。それが本当に世間一般で言う「普通」な生き方が幸せなのか?

 

人が幸せを感じる基準って本当に人それぞれで、周りを気にしすぎて、周りに合わせる必要は全くなくて、人には人それぞれ色々な生き方がある。そんな当たり前なことを気づかせてくれる本がありました。生きて行くことを少し楽にしてくれる気がしてきます。

 

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もちろん、同じようにできるとは全く思わないが、少しこの考えを取り入れて、「こうでなければならない」ってものを少し軽くして行きたいと思いました。

まず、自分の幸せは本当にお金をたくさん稼ぐことにあるのか。お金のために仕事をして、生活をしていくのか。それとも生活のためにお金を稼ぐために仕事をするのか。よくよく考えれば明らかに後者であって、前者ではないことは私の中では明らかだ。(お金があれば自分がしたいことがたくさんできるのは事実だけど…)

 

ただ、世の中には自分のしたいことを仕事にする人もいる。私はこれにとても憧れる。(私は、国語・日本語に関わる仕事か、文章を書くことに関わる仕事がしたい。)したいことをしてお金が稼げるならこれほどいいことはないだろう。しかし、いくら好きなことと言えど、仕事としてやる以上、期限もあるし、 人付き合いもしなきゃいけない。私の大嫌いなコミュニケーション能力ということがどうしてもついてまわる。(コミュニケーション能力についてはまた別で語るとします…)

 

私は、1日外にでたら、次の日1日は家でずっといないと、私の体力、心のエネルギー的に無理な気がする。そんな働き方を好きな職業で将来できるのだろうか。 

 

今さらながら『学問のすゝめ』を読んで

先見性の凄さ

まず初めの感想としては…福沢諭吉すげぇ、そりゃ壱万円札になるわぁ(笑)

何がすごいと思ったのか、それはこの前17編の文章が明治5年(1872年)〜明治9年(1876年)の間に書かれたということです。なんせこの本に書かれていることの本質は、現代でも通用してしまうと思えることばかりです。もちろん、文章とは、その時代の影響を逃れることは不可能であり当時にしか通用しない部分もあるでしょう。しかし、優れた文章(≒思想)は時空を超える効力を持つと思います。

『学問のすゝめ』第初編の書かれた1872年と言えば、1867年の大政奉還により江戸幕府から明治政府に変わってから5年であり、3年前までは戊辰戦争があり、1年前には廃藩置県が行われ、太陰太陽暦(旧暦)から太陽歴(グレゴリオ暦)に変わった年である。

いわば、江戸から明治へと日本が諸外国の近代文明に追いつこうと必死になって、国の整備を行っているまさにその初めのころである。

そんな時代に、現代でも通じるような近代文明であるべき人の姿を人々に説いている。

中には、男女の不平等のおかしさをも説いている。今現在の日本でもまだ完全には是正されていないことであり、それをこの時代に書いている福沢諭吉の凄さが窺える。

 今さら『学問のすゝめ』を読んだキッカケ

なぜ、私がこの本を今さら読もうと思ったか。それは、

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり

 

福沢諭吉『学問のすゝめ』初編、明治5年2月出版

この、福沢諭吉と言えば「天は人の上に人を造らず」という、あまりにも有名なセリフが一人歩きしており、(引用した部分だけでもわかる通り、)福沢諭吉の意図するのとは違ったニュアンスで世の中に広がっているということを知ったからだ。

(私は、西尾維新さんの『化物語』のアニメで確か触れられていて知りました。) 

下線を引いた部分にあるように「と言えり。」とあるように、福沢諭吉は、一般的な言説としてこのように言うが、といった引用の形でこの言葉を使っているのだ。(アメリカ独立宣言の引用と言われているようです。)

上の文にこのように続く。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。 

 

同上略

ここまで読めばわかりますよね。私なりに解釈して要約すると、「平等なんていうけれど実際の世界には貧富の差があるのは明らかで、じゃあなんでその差が出てしまうのかと言えば、それは勉強するかしないかの差によるものだよ。(だから勉強しなさい)」というのが福沢諭吉の言いたいことではないのだろうか。

もちろん、福沢諭吉は人間の生まれ持った「権理通義」(≒権利だと思われる)は同等だとも言っている。だから、男女の平等などの発想もしっかり持っている。それを拡大して、人の集まりである国も同等であり、西洋諸国と日本が同等であるともいっている。

福沢諭吉の学ぶ・学問とは

福沢諭吉が学ぶと言っているのは、何も経済学とか天文学のような学問ことをだけでなく、見聞、知識を広くして、物事の通りをしり、人の職分を知ることだという。それをするための道具として、文字の読み書きが大事であるという。その他、福沢諭吉のいう「実学」としている。

さらには、江戸時代からの身分に関する悪い風俗を嘆いている。四民平等になった今でも権力のあるものに、幕府に対するように政府に只々恐れをなして、絶対服従の態度を取ることの悪さを指摘し、学ばない愚民の上には酷い政府しかないことを説いている。

愚民にならないために、一人一人が国や法の仕組みを学び、自分を制して独立することが、国の独立につながりると説いている。そのためには、政府に頼りきりではなく、公だけではなく、私から独立していかなければならず、そのために慶應義塾をつくという旨も書いている。

この福沢諭吉の作った慶應義塾が、今では私立大学のトップといっていいところに位置していることは驚きだ。しかし、慶応大学生は、全員『学問のすゝめ』は読んでいるのだろうか。私、気になります。(笑)米澤穂信古典部シリーズ登場人物・千反田えるの決め台詞より引用)

職分

職分という言葉は度々登場し色々論じられているが私が気になったのはこんな文章だ。

然るに半解半知の飛揚がりものが、名分は無用と聞きて早く既にその職分を忘れ、人民の地位に居て政府の法を破り、政府の命をもって人民の産業に手を出し、兵隊が政を議して自ら師(いくさ)を起こし、文官が腕の力に負けて武官の指図に任ずる等のことあらば、これこそ国の大乱ならん。自主自由のなま嚙りにて無政無法の騒動なるべし。名分と職分とは文字こそ相似たれ、その趣意は全く別物なり。学者これを誤り認むることなかれ。

『学問のすゝめ』十一編、明治七年七月出版

この文章が明治七年に書かれている。この後、日本が統帥大権と軍部大臣現役武官制を利用した軍部の暴走により戦争へと向かっていくのを福沢諭吉が見ていたら一体なんといっただろうか。

『脱亜論』日清戦争については、色々議論があるので私にもわかりません。ただ、この『学問のすゝめ』を書いた人間がなぜそのようになったのか疑問ではあります。

西洋を手放しで喜んで取り入れるのは間違っている

東西の人民、風俗を別にし情意を殊にし、数千百年の久しき、各々その国土に行われたる習慣は、仮令(たと)い利害の未だ詳らかならざるものにおいてをや。これを採用せんとするには千思万慮歳月を積み、漸くその性質を明らかにして取捨を判断せざるべからず。然るに近日世上の有様を見るに、苟も中人以上の改革者流、或いは開化先生と称する輩は、口を開けば西洋文明の美を称し、一人これを唱うれば万人これに和し、凡そ智識道徳の教えよりは治国、経済、衣食住の細事に至るまでも悉皆西洋の風を慕うてこれに倣わんとせざるものなし。或いは未だ西洋の事情につきその一斑をも知らざる者にても、只管(ひたすら)旧物を廃棄してただ新をこれ求むるものの如し。

この後には、少しユーモアを含んだ面白い例を挙げて面白く説明している。

もちろん、福沢諭吉も科学など、西洋のものが優れていることも十分すぎるほどに知っていたに違いないが、単純に受け入れるのを嫌っている。社会全体が文明開化、西洋に追いつこうとするこの時代に、西洋でもダメなところ、日本の良いところにも目を向けて、こういったことを書けるというのは、ただ者ではないと思う。

その他諸々

噂を信じず直接話し合おう。人との関わりを絶ってはいけない。日本語で演説をまずできるようになることがまず大事だなどのことも言っている。

最後に

この文章は私なりに解釈したもので、そう大きくズレたことは書いてないと思いたいですが、やはり本当は皆さんが実際に読んでもらうのが一番だと思います。

文章自体は、多少漢文がわかれば、読みやすいと思います。漢文なんてなんの役に立つんだと思う高校生は、高校生当時の私を含め、たくさんいると思いますが、私は人生で漢文が役立つことは、昔の書物の内容を理解するときだと思います。この本のために漢文を学ぶのもありなんじゃないかと思える内容でした。この内容は、勉強なんてなんのためになるのという学生全員に読んで欲しい内容となってます。

ここまで褒める方向のことばかり書いたような気もしますが、福沢諭吉のこの文章は確かにわかりやすく、的確で面白い例えも素晴らしく、いい文章だと思いますが(何から目線だよえらそうに…)、過激な部分もあります。努力勤勉は当たり前、さらなる高みを目指さなければ的な厳しいなぁという意見もあります。それでもやはり読んでみたらいい本だと思いました。

 

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福沢諭吉 学問のすすめ

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私が読んだのは岩波文庫のものです。

 

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)