私が勝手に考える用語解説 【計算機的自然[デジタルネイチャー]】

 言葉で切り取ってしまった瞬間に、あらゆる壁(=境界線)がたちあらわれる。問題はいつも境界線上で起きる。(「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」)

 

 しかし、あらゆるものの境界線など、実は無く、境界線があっても人によって様々(多様性、ダイバーシティ)であり、世界はグラデーションのあるものなので、ここから緑でここから黄緑色という境界線を簡単に引けるものではない。境界線を引いたとしてもそれは、人によっては、えっ、これ黄緑ってカテゴリーに入ってるけど緑でしょ?みたいなことになる。

 

 人間は、何かを理解したり、理解したつもりになるために、カテゴリーにいれたり、二項対立を作ったりしたがるのだが、実はそういったことをするからマイノリティが生まれてきてしまうのだ。

 

 男女という二項対立を導入してしまうと、セクシャルマイノリティが現れ、浪人と現役という区分をすると、浪人がマイノリティとして扱われる。

 

 だが、より大きなカテゴリー、黄緑と黄色ならどちらも色というカテゴリーに入るし、男女なら人間というカテゴリーに入る。浪人と現役なら同じ大学生というカテゴリーに入る。つまり、境界線の引き方で認識が変わってしまうのだ。これは人種や障害者の扱いにも当てはまる。これらがみんなに理解されれば、お互いの個性、多様性を認め合うことができるのだ。

 そうした文脈、コンテクストの中で、生物(自然)と機械の境界線を溶かそうというのが、計算機的自然(デジタルネイチャー)という、落合陽一が提唱する新しい時代を作る概念だ

 だから彼は機械で蝶の動きを再現してみせたり、画面を木の材質に変えてみたり、鯖の皮の表面をプリントで再現してみたりするメディアアートという作品達を作りだすのである。その媒体、アートを見た鑑賞者は、機械と生物(自然)との境界線の融解に価値観を揺さぶられるのだ。

 渋谷で6月中まで、彼の作品の個展が、無料で公開されている。そこにあなたが実際に足を運び、生で、liveで、それを見るかは、あなたの多動力(堀江貴文が提唱)にかかっている。
ちなみに、私は見に行けてない。行きたい。きっとエモい(いとおかし=何か感情が揺り動かされる。)

 

 テクネフォビア(技術嫌悪)は、アーリーアダプター(早期受容者=新しい技術にすぐに飛びつき受けいれる人々=能動的)と、レイトマジョリティ(遅い受容者、大衆、大多数=受動的)かによって大きく違う。

 

 しかし、iPhoneを例にスティーブ・ジョブスの凄さを語れば、嘘が上手いということになる。彼は、小さなパソコンを、さも携帯電話であるかのように、iPhoneを売りだした。その結果、本来レイトマジョリティであるはずの大衆が小さなパソコンをもち、常時ネットに繋がる端末をたくさんの人が持つことが、普通となる世界を作りあげたのだ。これは、大きな価値観の転換である。 そして、その大きな価値観の転換で起きたのは、みんなそれぞれが自分の端末で、それぞれに違うことをしているというダイバーシティの到来だ。

 

 同じiPhoneでも、その使い方は様々だ。ゲーム機として使おうが、カメラとして使おうが、メモ帳として使おうが、youtube視聴機として使おうが、それは個人の個性と感受性とそれに赴くままだ。しかし、そうなった世界でこそ、他者理解が重要となる。

 

 しかも、その先はさらに細分化していく、なぜなら、youtubeで何の動画を見るかも、個人の個性と感受性とそれに赴くままだ。

 

 つまり、育って来た環境も、考え方も、影響を受けたものも全て、かなり、多様化したなかで、他人を受けいれるには、自分と他者の境界線を強く引くことである。

 

 自分は何が好きで、何が嫌いで、その理由はこうで、こういう自分史があるのだと、他者とたくさんの言葉を尽くし、語り合い、自分は他人とは違うんだ、(もちろん、それは自分が上とか、下とか、勝ちとか負けとかの優劣ではない。)という認識が大事になるのだと私は思う。

 

 

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

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魔法の世紀

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